2024年5月上旬発売『「高齢期」を私たちはどう生きるか』発刊記念連載
高齢者と社会貢献(1)

静岡市内の「高齢者学級」で、当事者である高齢者に向け「高齢者論」を説く静岡大学名誉教授の小櫻義明氏が、その講義内容をまとめた書籍『「高齢期」を私たちはどう生きるか――「老い」と「死」を見据えながら、「社会」とかかわる』を日本医療企画より刊行する。この発刊を記念し、当サイトで著者からのメッセージを全7回(予定)にわたり掲載していく。

高齢者になると多くの人は、社会から取り残されている・必要とされていないと感じるはずです。社会で起きている様々な出来事が理解できない、若い人たちとの会話が出来ない、共通の話題がないと思っています。すると社会に対して関心がなくなり、自分たちだけの世界に閉じこもりがちになります。その結果、ますます社会から取り残されている・必要とされていないと思うようになります。

しかし、私たち高齢者には長く生きてきたことによる多くの経験やそこから得た知識があります。だが、それらを社会が評価・活用としなくなったのも事実です。だからといって私たち高齢者は、社会に役立たないと思い込んで良いのでしょうか? 社会に背を向けて良いのでしょうか? 私は、社会から高齢者が必要とされなくなっても、私たち高齢者が社会に必要なことをすればよい、「社会貢献」に努力すべきではないのかと思います。

現在、多くの高齢者が気にしているのは、「貢献」以前の問題として家族や社会に「迷惑・負担をかけない」ことです。そのために必要なのが「健康で長生きをする」ことであり、それによって家族や社会への迷惑・負担を減らせます。さらに、それは未来の高齢者である若い人たちや現在の高齢者である私たちにとっても好ましいことになります。しかし、ここで考えねばならないのが、迷惑・負担とは決して悪いものではないことです。

なぜなら、人間は迷惑・負担を掛けあうことで生きているからです。実際、人間は心身共に未熟な状態で生まれ、両親や周囲の人たちに迷惑や負担をかけながら成長していく存在です。また高齢者になれば、誰もが「老い」や「病気」「要介護」の状態に陥り、程度の違いはあるものの家族や社会に迷惑や負担をかけることは避けられません。この点で「子育て」と「高齢者介護」は同じということになります。

しかし、現代の日本社会で「子育て」と「高齢者介護」を比較すると、前者への社会的支援には熱心だが、後者には冷たいように感じます。それは「子育て」にかける費用は未来を明るく切り開くための必要不可欠な投資であり、将来、回収することは可能だが、「高齢者介護」のための費用は過去の負債の整理のようなものであり、回収は不可能と思われるからです。この両者への評価の違いは、私たち高齢者の中にも強くあります。

ですが、人間の「種」としての存続、その進化と繁栄は「迷惑や負担のかけあい」としての「助け合い・支え合い」で可能になったものであり、そのなかで高齢者が大きな役割を果たしてきたことも明らかです。他の生物と比較して「長い高齢期」は人間特有なものであり、もし高齢者が迷惑と負担を掛けるだけであれば、人間は他の生物との生存競争で敗れて絶滅していたかもしれません。

現実は「長い高齢期」を持つ人間が他の生物を進化において圧倒し、今日まで存続と繁栄を成し遂げているのです。実際、近代以前の社会では高齢者が大きな役割を果たしており、彼らの知識や能力が積極的に活用されていました。それが近代以降の社会になると、高齢者の能力は社会的に活用されなくなり、今日では社会的な支援が必要な弱者とされるようになったのです。しかし、それは人類の長い歴史の中でみれば最近のことです。

これは高齢者の問題ではなく、高齢者の能力を活用しなくなった社会の問題です。そして高齢者の能力を活用しなくなると、高齢者に対して社会は「安楽死」を迫ることになります。それによって人間の高齢期は短くなり、他の生き物と同じように「老化」と同時に「死」を迎えることになるかもしれません。だが、このような社会が存続・繁栄できるかは疑問であり、分かりません。

この意味で現代は、高齢者が人類の進化と存続を妨げる存在として抹殺されるか、あるいは社会に必要な存在として貢献し続けるかの別れ道に立っていると言えます。それはまた社会のあり方として、高齢者を「必要として能力活用するか」あるいは「迷惑・負担として切り捨てるか」の選択にもなっていきます。このことを私たち高齢者は認識し、「高齢期を、どう生きるか」「どのように社会貢献をするか」を考えていかねばなりません。

ここで高齢者がいなくなった人間社会を想定してみて下さい。そこには高齢者と同じように回復の見込みのない病人や障害者も、その存在が否定されることになります。ただ健康で社会に迷惑・負担をかけないと認定された人間だけが生存を許されるのです。しかし人間であればいつかは高齢者になる、あるいは病気になり障害者になる可能性を持っています。そうなると抹殺されるので、それを恐れて人間は暮らすことになります。

そのような社会で人間は幸せになるでしょうか。生きていれば必ず病気にはなるし、自分だけでは解決できない問題に直面します。その時に他人に助けを求め、逆に困っている人を見かけたら助けるのが人間です。それが出来なくなれば人類は滅亡・絶滅するしかありません。その意味からも高齢者がいない社会、高齢者に「安楽死」・集団自決を迫る社会は異常であり、許されるものではありません。

そもそも「迷惑・負担」とは、「かける」側からは「助けられる」ことであり、「かけられる」側からは「助ける」ことになります。ところが、それを「損・得」で判断すれば「かける」側は「得をした」ことになり、「かけられる」側には「損をした」となり、双方に「対立・争い」が生じます。しかし、それを「助ける・助けられる」と判断すれば「対立・争い」とならず、むしろ「感謝・連帯」の関係になるはずです。

大切なことは「迷惑・負担」をかけないように心がけ、「迷惑・負担」をかけた場合は謝罪し、それを「助けられた」と感謝することです。「迷惑・負担」をかけられた側も、「助けた」と認識すれば腹立たしくなりません。互いに「迷惑・負担」を「助けた」「助けられた」と認識し、自然に謝罪し感謝するようになれば両者の「対立・争い」は避けられます。そこから「助け合い・支え合い」の関係は自然に広がっていくと思います。

▼最新回はこちら
高齢者と社会貢献(4) 2024年4月30日更新
高齢者と社会貢献(3) 2024年4月23日更新
高齢者と社会貢献(2) 2024年4月16日更新

「高齢期」を私たちはどう生きるか_表紙
※書籍の詳細情報・購入については近日中にお知らせいたします

小櫻義明(静岡大学名誉教授)
こざくら・よしあき●
1945年、広島県生まれ。1974年、京都大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。大学での研究分野は「経済学 地域政策論」。同年、静岡大学人文学部経済学科へ赴任し、「静岡地域学」を生涯のテーマとする。以来、専門分野にこだわることなく、アカデミズムに背を向け、自治体の政策・施策・事業の研究調査を行い、静岡県や静岡市などの自治体の各種の委員も数多く歴任。
地域住民による「地域づくり(まちづくり・むらおこし)」にも強い関心を持ち、静岡県内の地域づくり団体の交流や、先進事例の視察・調査を行い、助言者・講師としても活動。さらに自らの講義内容を実践に移すべく、静岡市の過疎山村の限界集落で住民と共に「むらおこし」も始める。2007年、妻や妻の母の介護を行うため、大学を早期退職。地域の民生委員・児童委員を3期(12年)務め、地域福祉のボランティア活動や高齢者向けの活動に従事する。
定住する過疎集落では、地元野菜の販売やソバなどの軽食を提供する「磨墨庵」(現在は営業停止)の運営や、農家の自宅の縁側でお茶とお茶請けを提供する「縁側お茶カフェ」を企画。車の運転ができない高齢者を対象にした「買い物ツアー」や「出前福祉朝市」、老人クラブでの「懐メロ・映画サロン」なども実施する。妻の死後、2年間は引きこもり状態だったが、現在は回復し、自身の研究の取りまとめを行っている。
主な著書に『介護恋愛論――愛する心を持ち、愛する技術を磨く』(日本医療企画)、『「静岡地域学」事始め(ことはじめ)~静岡県・静岡市・浜松市の特性と課題~』(発売:静岡新聞社)などがある。

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