2024年5月上旬発売『「高齢期」を私たちはどう生きるか』発刊記念連載
高齢者と社会貢献(2)

静岡市内の「高齢者学級」で、当事者である高齢者に向け「高齢者論」を説く静岡大学名誉教授の小櫻義明氏が、その講義内容をまとめた書籍『「高齢期」を私たちはどう生きるか――「老い」と「死」を見据えながら、「社会」とかかわる』を日本医療企画より刊行する。この発刊を記念し、当サイトで著者からのメッセージを全7回(予定)にわたり掲載していく。

高齢者の社会的な地位や役割が低下したのは近代以降ですが、それは社会の基本単位が「家族」から「個人」へ、経済活動の基本組織が「家族」から「企業」へ変わったことが大きく影響しています。なぜなら、それによって子どもは大人になると親から自立して自分の「家族」を作れるようになり、「仕事」も親と離れて「企業」に雇用されておこなうようになることで、高齢者となった親は大人になった子どもから切り離されるからです。

しかし、子どもが大人になり、親が高齢者になっても、親子の関係は変わりありません。ただ、親子の力関係は大きく変化します。なぜなら、高齢者となった親は働くことが出来なくなり、収入が途絶えることで経済的な力は大きく低下するからです。また、子どもの家族と別れて暮らすことで、子どもからの日常の生活支援は難しくなり、高齢者は自分の貯えと公的な支援で生活することを余儀なくさせられます。

こうして「家族」は消費に特化した組織となり、高齢の親と大人の子どもが別な「家族」になることで、「家族」は小規模化し、子育てに関わる大人の数も減少します。それは「生命の生産と再生産の基本組織」である「家族」の機能低下となり、「子育て」でも学校等の社会的な支援への依存を深めていきます。その結果、子育てと教育は少人数の「子育て家族」と保育や学校などの公的な機関の二本柱で担われるようになります。

現代において子育てをおこなっている家族は小規模・少人数であり、子育てが終われば子どもがいない家族になります。他方で、家族を持たない単身者や結婚しても子どもをつくらないという選択は増え続けています。それは、結婚や子育てを「煩わしい」「重い負担だけ」と考えるひと、そこに喜びや希望を感じないひとの増加を示すものであり、その結果が少子化による人口減少を引き起こし、それが社会問題化しつつあります。

現在、子どもがいない家族や単身者にとって「子育て」は他人事になっています。それは「子育て」が「自助」と「公助」だけに委ねられ、その二極化は「子育て」以外の問題解決にも広がっています。その典型が「性加害」の問題であり、一方で加害者への厳罰化という「公助」の主張があり、他方で被害回避の自己責任として「自助」を強調する主張も出ています。

この問題解決の手法としての「公助」と「自助」の二極化は「いじめ」をめぐる議論にも見られ、そこで問題にされるのは加害者と被害者だけです。しかし、大切なことは加害者も被害者も出さないことであり、ここでは事案に関わる多くの人の「互助」による問題発生抑止の取り組みが重要になります。つまり「公助」と「自助」だけでは限界があり、その中間に位置する「互助」の役割こそ重要視すべきです。

この点で問題にしたいのが、近代以降の社会が基本単位を「個人」として、その自由を認めたことで「自己中心主義」が蔓延していることです。自己の欲望充足の自由な追求は、自己の利害には敏感に反応するが、他者の利害には無関心な人間を生み出します。自分のことだけを考えていると、自分が傷つくことには敏感になりますが、他者が傷つくことには鈍感になり、他者を自己の欲望充足のための手段と見なし平気で人を傷つけるのです。

それは「求めるだけで、与えることをしない」「愛されることだけを願い、愛することをしない」人間の誕生となります。「自助」は「求める」「愛される」ための努力であり、「与える」「愛する」は「公助」に委ねてかかわろうとしないのです。だから「自助」と「公助」の二極化が進行し、「互助」が弱体化していくのです。つまり「家族」とは「自己の欲望充足のために互いに利用しあう夫婦や親子の関係の組織」となるのです。

したがって、迷惑・負担を掛けるだけの高齢者を「自助」として家族が引き受けるべきでなく、「公助」に委ねることになります。そして、「公助」からも排除されて、自己の存在の否定としての「集団自決」が促されるようになるのです。これが「個人」を基本単位とする近代以降の社会の特徴であれば、そこで認められたのは弱者の存在も否定できる強者だけの「自由」となります。

しかし、私たち高齢者が若い頃から求めていたのは弱者も含めたすべての人間の自由です。「性加害」や「いじめ」は弱者の自由を侵害するものとして、「公助」に委ねるだけでなく「自助」「互助」としても否定すべきです。それは「性加害」「いじめ」の加害者にならないことは当然として、それを擁護することも、無視して傍観者になることも許されません。それを厳しく批判することも、高齢者の「社会貢献」となります。

大人になる前の子どもは弱者として絶対に守られるべき対象となります。そして子どもは昔から高齢者にとってビタミン剤と言われており、子どもを見る・接するだけで高齢者は元気になります。最近では学校や保育所などの近くに高齢者の介護・福祉の施設を作ることが多くなっており、高齢者と子どもを空間的に遠ざける家族のあり方は健康長寿にとってもマイナスになります。

確かに要介護の高齢者が子どもの世話をすることは無理ですが、元気な高齢者であれば社会貢献として子育て支援は可能です。実際、両親が共働きの家族では祖父母に子育てを助けてもらっている事例が多く見られます。ただ、地理的に祖父母と離れて暮らしている場合が多いので、高齢者の子育て支援を地域ごとに作っていくことを検討すべきです。家族内の「自助」に地域での「互助」を加え、それを「公助」が支援するのが理想となります。

最後に強調しておきたいのは、人間の個人的な欲望・欲求には「他者に与える・愛する・助ける・支える」ことも含まれることです。それは人間がひとりでは生きていけないからであり、他者の欲望・欲求の充足に協力することも、自己の喜び・生きがいにもなります。なによりも、それによって高齢者の自己肯定感が高まり、生きていくことの自信・力となるからです。

高齢者にとって「社会貢献」とは高齢者が社会に必要とされる・自己肯定感の向上のための要求でもあります。この点で高齢者にとって「福祉」は「助けられる」存在に固定されるものであってはなりません。「助ける」存在にもなることも含むべきです。認知症になり、寝たきりになっても、「誰かに必要とされている」と感じることが生きる力を与えてくれるのです。私は、それを介護している妻に教えられました。

▼最新回はこちら
高齢者と社会貢献(3) 2024年4月23日更新

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高齢者と社会貢献(1) 2024年4月9日更新

「高齢期」を私たちはどう生きるか_表紙
※書籍の詳細情報・購入については近日中にお知らせいたします

小櫻義明(静岡大学名誉教授)
こざくら・よしあき●
1945年、広島県生まれ。1974年、京都大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。大学での研究分野は「経済学 地域政策論」。同年、静岡大学人文学部経済学科へ赴任し、「静岡地域学」を生涯のテーマとする。以来、専門分野にこだわることなく、アカデミズムに背を向け、自治体の政策・施策・事業の研究調査を行い、静岡県や静岡市などの自治体の各種の委員も数多く歴任。
地域住民による「地域づくり(まちづくり・むらおこし)」にも強い関心を持ち、静岡県内の地域づくり団体の交流や、先進事例の視察・調査を行い、助言者・講師としても活動。さらに自らの講義内容を実践に移すべく、静岡市の過疎山村の限界集落で住民と共に「むらおこし」も始める。2007年、妻や妻の母の介護を行うため、大学を早期退職。地域の民生委員・児童委員を3期(12年)務め、地域福祉のボランティア活動や高齢者向けの活動に従事する。
定住する過疎集落では、地元野菜の販売やソバなどの軽食を提供する「磨墨庵」(現在は営業停止)の運営や、農家の自宅の縁側でお茶とお茶請けを提供する「縁側お茶カフェ」を企画。車の運転ができない高齢者を対象にした「買い物ツアー」や「出前福祉朝市」、老人クラブでの「懐メロ・映画サロン」なども実施する。妻の死後、2年間は引きこもり状態だったが、現在は回復し、自身の研究の取りまとめを行っている。
主な著書に『介護恋愛論――愛する心を持ち、愛する技術を磨く』(日本医療企画)、『「静岡地域学」事始め(ことはじめ)~静岡県・静岡市・浜松市の特性と課題~』(発売:静岡新聞社)などがある。

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