お世話するココロ
第139回
訪問診療医の殺害事件に思うこと

1月27日埼玉県ふじみ野市で、訪問診療を行っていた医師が、弔問に訪れた故人の自宅で殺害される事件が起きました。故人は92歳の女性で、容疑者は66歳の息子。訪問看護にかかわる者として、ひとごととは思えません。

事件の特異性

報道によれば、容疑者である66歳の男性は母親の治療について訪問診療を行っていた40代の男性医師に不満があったとのこと。加えて、「母が死んでしまい、この先、いいことがないと思った。先生やクリニックの人を道づれにして自殺しようと考えた」と、自暴自棄になった末の行動だったと話しているそうです。
使った凶器が散弾銃だった点も非常に特異です。なぜよりにもよってこの男性に銃の所持が許されていたのでしょうか。経済、技術、医療などさまざまな分野で先進性が疑わしくなってきた今の日本。それでも、一般人が銃撃される危険はない、という点は疑いなく信じていたのですが……。

近年、在宅介護が増え、支援者が訪問先で受ける力があることを、世のなかにやっと知られるようになりました。言葉の暴力に加え、殴られる、蹴られるといった身体的な被害も、想像以上に多いという現実があります。
今は、暴力の危険性があれば複数人で訪問するという対応が多くの在宅医療でとられています。しかし、行った先の家で銃撃されるかもしれないとなれば、何人で行っても歯が立たないでしょう。救いは、これがまだ日本においては極めて特異な事件である、ということ。とはいえ、このような事件があり得るとわかった以上、リスクを踏まえた対応が必要な場面は出てくるでしょう。
次に、この事件が示す普遍的な面に焦点を当てたいと思います。

親の死を受け入れられない子ども

まず、問題の1つは、親の死をどうしても受け入れられない子どもの存在です。
今回の事件で、亡くなった母親は92歳。健康状態がすぐれず、訪問医療を受けていたことを思えば、男性には少しずつ心の準備をする時間はあったと思われます。
しかし、息子はとにかく母親を死なせたくなかったのですね。一方の医師は、92歳という年齢に沿った、穏やかな死をめざしていたようにも見えます。それは、医療者として納得できる方向性ではあるのですが、ごく稀に、どんな状況になっても、蘇生を含めた延命を希望する人がいます。

私が以前働いていた病院で、こんな経験があります。入院してい女性は80代。血液疾患の終末期で、血液が固まりにくく、少しの皮膚に内出血が起きる状態でした。
50代の息子は勤務後に毎晩来院していましたが、それまで大きな問題はありませんでした。ところが、いよいよ母の具合が悪くなってきたある日、紙おむつとの摩擦でできた内出血を見て、彼は「看護師による虐待だ」と激高したのです。
夜勤の看護師だけでは対応できず、この夜当直の管理者だった私彼に対応しました。病棟の看護師によれば、彼は母親の病状を十分理解していたとのこと。「腕を捕まれて、すごい剣幕でした。内出血も初めてではないのに……」と話す看護師の震える声が忘れられません。
幸い、この時は2時間ほど話を聞いたところ、彼はだんだん落ち着いていきました。その時の主な内容は、父親への憎しみと母親へ愛着。このように言語化することで落ち着き、現状を受け入れられる場合もありますが、いつもこうとはかぎりません。

距離がとりにくい在宅医療

問題の2つ目は、訪問診療にしろ、訪問看護にしろ、自宅を訪問する形のサービスは、密室での差し向かいで提供され、利用者との距離が近くなりやすい性質があることです。
ふじみ野市の事件では、何度かトラブルがあった息子から、亡くなった母親の焼香に来るように言われた訪問診療医とそのチームが、自宅を訪問して被害に遭いました。
知らない人が見れば、散弾銃の所有者という情報がなかったにせよ、なぜそんなトラブルを起こす人の家に行ったのか、はかりかねるかもしれません。
私も、訪問看護の仕事をしていなければ、おそらくそのような疑間をもったことでしょう。けれども、ひとたび訪問看護の仕事を経験すると、感覚が違います。一番の違いは、呼ばれた家という場所が、自分たちが医療・看護のために何度も訪れていた場所であり、そこに行くことへの抵抗感が薄いという点です。
加えて、医療・看護は、「誠意を尽くせばわかってもらえる」「きちんと説明すれば理解してもらえる」という、素朴な性善説なしに成り立たないのではないでしょうか。私自身、こうした期待を裏切られた体験はたくさんあります。でも、このような気持ちをどこかでもっていないと、看護師として倫理的な行動がとれないとも思うのです。

実際には、病状の悪化を医師の診療のせいにするといった、逆恨みは珍しくありません。それでも、「だったら放っておけ」とならないのが多くの医療者。できるだけ対話をもち、その結果ある程度納得してもらえる場合もあるのです。
今回被害に遭った医師は、誠意を尽くそうとして、弔問に行ったのではないでしょうか。真面目にかかわろうとしたからこその被害と思うと、やりきれなさもさらに募ります。

考えられる今後の対応

今回は弔問での被害でしたが、訪問診療や訪問看護の最中に同じことが起こる可能性も否定できません。家を訪問して医療・看護を提供する以上、暴力のリスクは考慮せねばならず、実際、リスクがある例では、複数人で訪問するようにしているはずです。
これらに加えて、さらに必要な対応を2つ考えてみました。
まず、「親の死を受け入れられない子ども」については、ある程度説明して無理ならば、その気持ちに添うしかないと思います。今回の事件は、冷淡な医師であれば理解を得る努力は捨て、「じゃあ、いざとなったら救急車呼んでください」と逃げていたはずです。
その結果、救急医療の現場に運ばれ、病院の医療者は困惑するでしょう。実際は蘇生をしたとしても効果があるとは思えません。本来の業務を圧迫するとの批判を受ける可能性があります。
しかし、そのような選択をしたい家族もいるのですよね。その説得まで訪問診療医が丸抱えし、最後恨まれるのではあまりにも気の毒。今後は、こうした家族への対応を訪問診療で丸抱えしなくていいような体制が必要かと思いました。

次に、「距離がとりにくい在宅医療」についてですが、医療や看護の提供は避けられないとしても、弔問については行かないことを原則にしてもよいのではないでしょうか。
これは現在でも事業所などによって対応に差があると思いますので、現在していないならば、そのままでかまいません。しかし弔問しているならば、これを機に、検討が必要だと思います。
その結果、仮に弔問を続けるとしても、少しでも今回のようなリスクがあると思ったら、行かない選択を保証するという「判断」の余地をつくっておくのがよいでしょう。

在宅ケアが主流になるなかで、さまざまな職種が訪問サービスに進出しています。このような流れがあるからこそ、今一度サービスを提供する私たち自身の安全についても、再考が必要だろうと思います。(『ヘルスケア・レストラン』2022年4月号)

宮子あずさ(看護師・随筆家)
みやこ・あずさ●1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業後、2009年3月まで看護師としてさまざまな診療科に勤務。13年、東京女子医科大学大学院博士後期課程修了。博士(看護学)。現在は精神科病院の訪問看護室に勤務(非常勤)。長年、医療系雑誌などに小説やエッセイを執筆。講演活動も行う。看護師が楽しみながら仕事を続けていける環境づくりに取り組んでいる。近著に『まとめないACP 整わない現場、予測しきれない死』(医学書院)がある

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