お世話するココロ
第136回
看護職の倫理綱領

私たち看護師は、命を預かる専門職として、常に倫理的な行動が求められています。そのため、公益社団法人日本看護協会は、職能団体として1988年に「看護師の倫理「規定」を作成し、2003年には「看護者の倫理綱領」を公表しています。

今の倫理綱領は第3版

看護師にとって、倫理綱領は身近な文書です。私は学生時代から、倫理について授業で学び、就職後も毎年のように研修を受けてきました。ある程度教育のしっかりした病院に就職すれば、だいたい似たような状況だろうと思います。

日本看護協会が初めて倫理綱領を発表したのは、1988年。以来、2003年、21年と2度の改訂が行われ、今使われている「看護職の倫理綱領」は第3版になります。名称もその都度変わり、「看護師の倫理規定」から、現在は准看護師も含めた「看護職の倫理綱領」という名称になりました。
以下、16の本文をざっと紹介しましょう。なお、全文は同会ホームページで見ることができます。

①人間の生命と尊厳及び権利の尊重、②平等な看護の提供、③信頼関係に基づく看護の提供、④知る権利と自己決定権への支援、⑤個人情報の保護、⑥不利益や危害からの保護と安全確保、⑦自己の責任と能力を把握した責任ある看護、⑧継続学習による高い教養と専門的能力の開発・維持・向上、⑨相互理解に基づく多職種での協働、⑩職務に関する行動基準の設定、⑪研究や実践を通した看護学への貢献、⑫質の高い看護の前提となる看護職自身のウェルビーイング(身体的、精神的、社会的に良好な状態であること)の向上、⑬専門職としての誇りと品位ある行動、⑭社会正義を意識した差別や貧困など社会的問題への関与、⑮職能団体を通じ他制度の改善や政策策定への関与、⑯専門職としての災害支援。

個別に見ると、異論を唱える内容は見当たりません。ところが、いざ臨床で実現しようとすると、あちら立てればこちら立たずの難間が待ちかまえているのです。

※看護師の倫理綱領:https://www.nurse.or.jp/home/publication/pdf/rinri/code_of_ethics.pdf

しばしば対立する人権と安全

本文①は簡潔にいうと基本的人権の尊重で、これに照らせば本人の意に沿わない行為を行ってはなりません。強制入院や行動制限などもってのほかと言えます。
では、自傷他害の恐れがある患者の場合はどうでしょう。本文⑥には患者の安全確保が役割として明記されています。もし、強制的に入院させない限り、自傷他害の恐れがあるとしたら……?
このように、人権と安全が両立しない場合、私たち看護師は非常に悩み、対応を協議します。大事なのは一人で決めないこと。その場で話し合う時間がなく対処した時は、あとからそれを継続するか否か、検討することになります。

この行動制限の問題は、精神科特有の問題ではありません。私は若い頃に内科病棟で働き、そこで意識障害から点滴や気道確保のチューブ類を抜こうとする患者さんと、毎日のように格闘しました。なかでも記憶に残っている場面が2つあります。
1つはじっとしていられない認知症の高齢者を、ベッドに縛り付けて人工透析を行った場面。透析は週3回行われました。当時の私は、縛られている患者さんを見るのがつらく、「あそこまでして治療すべきだったのか」と思ったものです。
けれども、今振り返ると、自分が頭のどこかで「認知症の高齢者だから、透析はしなくていい」と考えていたように思うのです。こうした考え方こそが、基本的人権の否定であり、治療の中止には慎重でなければなりません。

もう1つは破裂した食道静脈瘤圧迫止血しているチューブを、患者さんが引っこ抜き、あっという間に亡くなった場面です。その人は肝硬変で、肝性脳症のため、上肢を抑制していました。
ところが急に錯乱状態になり、ベッドに立ち上がったため、医師や看護師が総出で押さえました。しかし、ものすごい力で振り切られ、結局チューブを自己抜去。大出血のなかで亡くなりました。
あの場面を思うと、抑制なしに救えない命があると思い知らされます。けれども、だからこそ、身体抑制に慣れてはいけない。常に最小限にとどめる努力が求められるのです。

行われなかった肺移植

ある日、実施予定だった生体肺移植手術が、提供者の心変わりで突如中止になった場面に立ち会いました。患者さんと提供者は兄弟の関係。手術が近づくにつれて、提供者の家族が不安を募らせ、反対に転じたのが中止理由でした。
提供者が臓器をあげない、と言い出した以上、手術は中止せざるを得ません。これだけでも大変な状況ですが、さらに複雑だったのは、この時点で患者さんの意識がなかったことでした。
患者さんは生体肺移植の準備中に調子が悪くなり、私が当時勤める病院に入院していました。急激に病状が悪くなり、鎮静して人工呼吸器を装着。いろいろな検討の末、移植を急ぐことが決まり、翌日転院予定だったのです。

移植中止が決まったその時であれば、鎮静剤を止めれば、意識は戻ったでしょう。そして、その場にいた医師も看護師も、そのようにして、中止になった事実を告げるべきだと考えました。
倫理綱領に照らせば、この結論は明らかです。本文のみならず、③、④からも、本人の生命を左右する事態を、本人に知らせないことはあり得ません。この考えは、今も同じです。
ところが、患者さんの親族はそうは考えませんでした。提供者になる予定だった弟は、「私が悪いんだ」と大泣きしながら、「知らせる勇気がない。知らないほうが本人も幸せだ」と口にしました。
ほかの親族は、「あんたが心変わりするからだ」と弟を責めながらも、「知らせたからといって、何ができるんだ。本人は絶望するだけじゃないか」と同じ意見でした。
結局、その場にいた親族全員が、鎮静を切って意識を戻すことに反対。事実を知らされないまま、思者さんは眠ったまま人工呼吸器で命をつないだのです。

「知らずに死んでよかった」のか

その後も医師や看護師は「本人が事実を知らないままに置くことは、医療者として許されないと思う」と考えていました。しかし、親族の面会が減るなか、患者さんの容態はさらに悪化。結局、移植中止の決定から1ヵ月程度で亡くなったのです。

患者さんが亡くなったと聞いて、私は「こんなに残された日々が少なかったのなら、知らずに亡くなってよかったのかもしれない」と思いました。しかし、その後倫理について学び、考えを深めるにつれ、その考えは間違っていると考えるようになったのです。
なぜなら、個人の知る権利という見地から言えば、移植中止という事実を本人に知らせないことなど、あり得ないからです。
確かに、「知らせたからといって、何ができるのだ」と問われれば、何もできません。「絶望するだけだ」と言われれば、それはそうかもしれない。しかし、だから知らせない、という判断が正しいとは言えないのです。
冷たく聞こえるかもしれませんが、倫理的であるかどうかと、知らせた結果、ほかに手立てがあるかどうか、というのはまったく別の話です。たとえ移植の中止を知らないほうが幸せだと考えられるとしても、倫理的な判断をチャラにしてはいけません。

以上、かなりキッパリと書きましたが、これは、あくまでも私自身の考えです。倫理綱領は、抽象的で、いろいろな判断があると思います。皆さんはどのように倫理の問題を捉えるでしょうか。ぜひ、考えてみてください。(『ヘルスケア・レストラン』2022年1月号)

宮子あずさ(看護師・随筆家)
みやこ・あずさ●1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業後、2009年3月まで看護師としてさまざまな診療科に勤務。13年、東京女子医科大学大学院博士後期課程修了。博士(看護学)。現在は精神科病院の訪問看護室に勤務(非常勤)。長年、医療系雑誌などに小説やエッセイを執筆。講演活動も行う。看護師が楽しみながら仕事を続けていける環境づくりに取り組んでいる。近著に『まとめないACP 整わない現場、予測しきれない死』(医学書院)がある

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