明治生まれの患者さん

明治時代が終わったのは1912年。今から113年前になります。明治時代の人をお世話したのも、今では遠い昔の思い出です。

5つの年号

今働いている病棟には20代の看護師が数多くいて、ふと自分の若い頃を思い出す機会が増えました。長期入院が多い慢性期病棟では、30年を超える入院も珍しくありません。75歳以上の後期高齢者が増えつつあり、病棟のケア度も慢性的に高くなっています。

今、病棟にいる75歳は1950年生まれ。元号では、昭和25年生まれです。私が新人の頃はどうだったかと計算してびっくり。1987(昭和62)年、私が就職した年に75歳になる人は1912年、明治最終年の生まれになるのですよね。
最初に配属された内科病棟は患者さんの平均年齢が高く、80代の患者さんがたくさんいました。そうか、あの人たちは皆、明治生まれだったのだ……。そう思うと、何とも感慨深いものがあります。

ネットで調べたところ、今現在生存する明治生まれの人は4人で、全員が女性だとのこと。最高齢は奈良県在住の女性医師で1911(明治44)年生まれ。80歳を超えても産婦人科・内科の医師として活躍していたそうです。

明治生まれの人は明治、大正、昭和、平成、令和の5つの年号を生きた人たちです。それぞれの元号が続いた年数を見てみると、以下のようになります。

明治:1868~1912年
最終日は明治45年7月29日

大正:1912~1926年
最終日は大正15年12月24日

昭和:1926~1989年
最終日は昭和64年1月7日

平成:1989~2019年
最終日は平成31年4月30日

令和:2019年~
現在、令和7年

私の場合、子どもの患者さんとかかわる機会がなく、令和生まれの患者さんは記憶にありません。それでも、明治から平成まで4つの年号に生まれた人のお世話をしてきたんですよね。改めて、月日の流れを感じます。

※松田隆 明治生まれは4人 歴史の証人の長寿顔う 2025/8/26 令和瓦版
https://relwa-kawaraban.com/society/20250826/

男尊女卑の明治時代

よく人に話してきた患者さんの思い出も、あれが明治生まれの人だったんだと思うと、合点がいったりします。いずれも、看護師になりたての頃かかわった80代の患者さん。間違いなく、明治生まれ。
一人は、脳卒中の後、身体に麻痺が残りリハビリをしていた男性。発症まではとても元気で、家業を切り盛りしていたと聞きました。
「早く戻って商売だ」とハリのある声で話し、気は元気な分だけ動かない身体にいらだっていたようです。少しでもリハビリが進むように自分でできることは自分でしてもらおうと、こちらも根気よくかかわっていました。
ところが、退院を焦るわりには生活動作は看護師任せ。リハビリ室にいく前の着替えなどは、自分でしようとしないのです。
「さあ、靴下も履きましょう。お手伝いしますから」と靴下を持たせたところ、ものすごいい癇癪を起こされました。
「いいんだ、靴下なんて履けなくても。そんなのは女が履かせるもんだ。俺は自分じゃやんねえぞ。履けなくても帰るんだ。俺の世話は女房と娘がするんだ」
これを聞いた私は唖然。時は昭和の終わり。今時、どこに靴下も自分で履かない男性がいるんでしょうか。目と耳を疑いました。

後から面会に来た家族に聞くと、「ものすごい亭主関白で、仕事以外は全部妻や娘に丸投げです」とのこと。靴下を自分で履かないというのは、嘘ではなさそうでした。
この話は私のなかで、ある諦めを生み出しました。すなわち、人間は元気な時に自立している以上には、病んでから自立はできないのではないでしょうか。
「可能な限り身の回りのことは自分でやる」というのが自立なら、着替えも完徹できない男性は、はなから自立していないのです。

一部の男性とはいえ、そんな生き方が可能だったのは、やはり男尊女卑の時代だったからでしょう。なにしろ、1945(昭和20年)の敗戦まで、大日本帝国憲法下の日本では女性は参政権を持たず、妻は夫に従属すると決まっていたのです。
このような時代に生きた男性は、女性より優位に立つ代償として、多くの重荷も背負わされたことでしょう。
それでも、男性に生まれただけで女性への支配的な立場が保障される世の中は、男性にとってどこか“生きやすかった”と思えてなりません。
それだけに、このような価値観から自由になるのは、とても難しかったのではないでしょうか。昭和の終わりになっても、変われない明治の男性がいたのですよね。時代の変化は、本当にゆっくりなんだと思います。

助け合う元芸者たち

忘れられない女性患者さんもいます。私が働いていた病院は芸妓もいるような神楽坂の近く。新人時代は、明治生まれの元芸者さんが何人も人院していました。
独身を通して高齢になった人も多く、お馴染みの上の人たちで助け合っていたのが印象に残っています。

なかでも忘れられないのは、重症の喘息にもかかわらず老犬を子どものようにかわいがっていた、当時80代の女性。ひどい発作を起こしては緊急入院を繰り返し、その間犬の世話を頼む仲間に、全幅の信頼を寄せていました。
「犬の毛で喘息になっているのに手放さないなんて、理解できない」と言う同僚もいましたが、猫好きの私には、人ごとではありません。
そんな言葉を聞くたび、「老犬をどうやって手放せというのかしら」と辛くなったものです。

ただ、そのような批判的な声が仲間から出るのも、わからなくはありません。女性は非常に言葉がきつく、看護師が良かれと思って手を出そうとしても、強くはねつけるところがあったのです。
症状が落ち着くまで、女性は少し動いただけで呼吸困難になりました。酸素を吸ってベッドにいる時は落ち着いていても、動くと必要な酸素量が増え、一気に呼吸困難になるのです。

一番困ったのは、排泄。ベッドの近くにポータブルトイレを置き、そこへの移動も看護師が介助する。これが最も望ましい方法でした。これなら酸素を吸ったまま排泄でき、体動も最小限に抑えられます。
ところが、女性は入院直後の身動きができない時こそ看護師の力を借りるものの、少し楽になると、自分でトイレに歩こうとします。
酸素を外して歩くうちに意識を失って倒れたのは、一度や二度ではありません。

「本当に、酸素を外すと命が危ない状態です。お願いですから、トイレに行きたくなったら看護師を呼んでください。ポータブルトイレがどうしても嫌なら、車いすでトイレにお連れします」
ある日の夜勤、繰り返し倒れる女性に私はこう懇願したものです。
しかし女性は、息も絶え絶えになりながら「嫌です。下の世話には絶対なりません」ときっぱり言いました。

実際には失禁もあったし、お世話はしていたのですが……。自ら援助を求めることだけはしたくなかったのでしょうね。
悪くなっては入院、よくなったら退院。それを繰り返しながら少しずつ回復のレベルが下がり、やがて、女性は亡くなりました。

最後を看取ったのは芸者時代の仲間で、犬を引き受けたお友だちがずっと手を握っていました。「あの子もね、じきに行くから。楽しみに待ってなさいね」
女性の犬はどうなったのかと、今も思うことがあります。恐らく、女性と犬はあちらの世界で会えたはず。そう思うことにしています。

男尊女卑の時代、靴下を自分で履かなかった男性と、女性同士で助け合った芸者さんたち。令和の時代になって、時代はどこまで変わったのでしょうか。(『ヘルスケア・レストラン』2026年1月号)

宮子あずさ(看護師・随筆家)
みやこ・あずさ●1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業後、2009年3月まで看護師としてさまざまな診療科に勤務。13年、東京女子医科大学大学院博士後期課程修了。博士(看護学)。精神科病院の訪問看護室勤務(非常勤)を経て、同院の慢性期病棟に異動。長年、医療系雑誌などに小説やエッセイを執筆。講演活動も行う。看護師が楽しみながら仕事を続けていける環境づくりに取り組んでいる。近著に『まとめないACP 整わない現場、予測しきれない死』(医学書院)がある

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